刑事司法とジェンダー(牧野雅子)

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未然に防ぐために:自分が、自分のしていることを正当化している、という事実に気づくためにはどうすればいい。

事後の反省のために:第三者の視点を持ち、いままでどれだけ自分が自分のしていることを正当化してきたのか。(自分のしたことによって、被害者がどのようなことになっているか想像することは・・・反省には繋がらないようだ)

誰も加害者にはしたくない、と一人一人で決意することだろうか。


日本の現法では、「被害者がどれだけ辱められたか、貶められているか」と、「加害者への量刑」が比例する。

前者が先にあって、後者が決まる。

ここで大切なのは、「被害者は辱められた」のだ、と被害者はスティグマを押しつけられる、ということ。加害者を追求するために、被害者は抑圧されつづけることが必須となっているのはオカシイだろう。


性暴力への厳罰化はあまり意味をなさないようだ。量刑が多い=長く出てこないので、その間は安心・・・というくらいかもしれない。

“男性”“若い”としての「欲望」「性欲」「本能」を原因として犯罪がおきるのだ、・・・などという安易な帰結は、もう誰の目でみてもオカシイ!と分かってきた。

「性暴力」そのものが、とんでもない重荷を、被害者に負わせるという事実。警察に捕まったとき厳罰に処せられるかもしれないという可能性。・・・本当に本当に想像しなければ理解できない難しい内容では、性犯罪をどうこうすることはできないようである。

以上のような「犯罪を思いとどまらせる可能性」などというものは、「人間の正当化」の前では無力でしかない。「これは犯罪ではない/捕まらなければいい/ここまでなら大丈夫、という人間の正当化」の前では、 「出来心で」「やらなければならなかった」「衝動的に」という言葉など意味がない。すべては正当化から始まる。

正当化は事後にも及ぶ。たとえば、性暴力の加害責任を被害者へと負わせる言葉。たとえば、自分はたしかに犯罪をしたかもしれないけれども、こんなに量刑が多いのは不当だという不満。

だれも加害者にはしたくない。意思の力ではなく、制度や枠組みや形や実物をともなったもので、なんとかできないだろうか。