イベント・行事をするとは、「場を作る」「場が作られる」ということ

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2015/03/10に書いた文章を見つけたので、再掲してみる。


陽岳寺では坐禅会やヨガ、お茶の会など催している。では、どのような会・先生であろうとオッケーかと言うと、違う。こういった会をお寺で催すにあたり大切にしたいことがある。
それは”イベント・行事をするとは「場を作る」「場が作られる」ということ”だ。
あるお坊さんも仰っているが「お寺は私的な公共施設」と言える。定義の範囲については置いておくが、「営利にとらわれず、トップの自由な裁量で決められる、みんなの施設」と言い換えてみようか。
さて、どこぞの会場やスペースで「場を作る」「場が作られる」とき、私は3つの視点が存在しているし、大切にされるのだと思う。

  1. 主催者(会場の設定者)
  2. 講師(導き役)
  3. 参加者

これはワークショップでも同じだと思うし、お寺の行事もそうだし、会社や学校など”空気や雰囲気を読む必要がある場”も同様だろうか。
じつは自然発生的に「場を作る」ことは起きている。たとえば公園でのママ友の集まり。主催者はいつものメンバー自身(ママさんABCD「公園に行ったらママ友がいるわよね、行こうかしら」)、導き役は話の主導権を握ったママさん(ママさんA「ちょっと聞いてよ!」)、参加者は他のママさんたちだ(ママさんBCD「なになに」)。
場であることのハードルをどこまで上げる/下げるかは別にしても、3つの視点があることに違いはないと思う。

現役ワークショップ講師も大切にしている3つの視点

たまたまではあるが、ワークショップの講師と言われる方々とお話させていただく機会が多々ある昨今。彼ら、ワークショップの講師である方々は、この3つの視点を本当に大切にしているように思える。
主催者・講師・参加者のうち、どれか一つでも欠けては「ワークショップ」は成立しない。
会場も先生も用意したけれども、参加者がいなければ意味がないだろう。講師も受けたい参加者もいたからといって、場所がなければ開催できない。参加者のニーズもあることが分かり、主催者がお願いしていても、講師が首を縦にふらなければ話は進まない。
「場を作る」3者はお互いに依存する関係になっている。
さらに言えば、講師としては参加者の気持ちを考えて内容を素晴らしいものに!と考えるだろう。主催者としては収支と環境のバランスを見つつ、必要なことから投資するだろう。参加者も講師がこのまま教え続けてくれるように応援することを考えて、しっかり参加するだろう。
もしも、よい「場を作る」ことがしたいならば、この3つの視点は捨て置けないようだ。

  1. 主催者(会場の設定者)
  2. 講師(導き役)
  3. 参加者

ワークショップについてもう少し

ここですこし、浅い知識を披露しながら、「ワークショップとはこういうもの」的なことを考えてみたい。
経験やお話を聞いた上でのことになるが、「ワークショップとはこういうもの」の条件は、上記の3つの視点に加えて、こんなところも加わるのではないだろうか。

  • テーマがある
  • 導き役・講師(的存在)から、考えと体験とモノ(・テーマ)の提示をされる
  • 参加者の受け止め方は自由
  • その場にいる人たちの中で、意見交換や相互作用がある(そもそもそういうコンテンツ、感想シェアetc.)

もちろん、テーマや講師が決まっておらず、(参加者の中から)自然発生することを期待するパターンもあるだろう。さらに言えば、講師が一人である必要もないし、その他のルールもしかり。
ただし、ファシリテーションが当たり前すぎると、結果も当たり前すぎることになりやすいらしい。
・・・プレゼンテーション(発表)のみ、マインドコントロール(心理誘導)、アジテーション(扇動)はワークショップとは言わない。

ワークショップをより良いものにする「相手へのリスペクト」

さて、私たちが(ワークショップといわれる)「場を作る」「場が作られる」一員になったとき、どの立ち位置にいるのだろうか。主催者としてお願いする立場だろうか?講師としてなにかを提案するのだろうか?参加者としてワクワクしているのだろうか?
今自分がどこにいるかを認識して、動くことは大事だろう。参加者なのに”来てやったことを有難く思え”などと偉そうにすることや、主催者なのに”やってもらえないと困るんで講師の方の言いなりっす”と卑屈になることなどは・・・間違っている。

自分は自分の立場から、相手をリスペクトする気持ちで参加しなければ、ともによりよいワークショップをつくることは難しいだろう。

当たり前のことだが、3つの視点のうち2つの視点(自分の立ち位置以外の人の視点)は、想像でしかないのだ。
とあるイベントにて、WSの講師を是非にとお願いしている、参加者に来てねと声かけしている側として、これは肝に銘じておかないといけない。

三方よし(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったもの。)

コトバンク:デジタル大辞泉

という言葉は有名だが、所詮売り手は売り手であり、買い手は買い手であり、世間は世間である。主催者は主催者であり、講師は講師であり、参加者は参加者なのである。
自分がどこにいるかを認識するというよりかは、どこからどこまでを先方がテリトリーとしているかが大事なのだと思う。
たとえばWSの内容について。WSのことは講師が一番考えている。主催者は逆立ちしたって、講師よりもWSの内容について考えていない(もちろん、イベントの趣旨に合うかどうか、新たな視点、とか考えるわけではあるが、そういうことではなくて)。いくら考えていたとしても、WSを実際に行うのは講師なわけだから、どうやっても勝てない。
さらに言えば、主催者側はほかにもっと考えることがあるわけだし、よい「場を作る」ことを考えたならば、講師も主催者側もそれぞれにやることをやるだけなのだ。

自分は自分のやることをやり、相手に尊重と感謝の思いで接すること。
この会場がつかえて良かった、サンキュー。講師の歩む道を尊重する。参加者も集まってくれたので、形になった。

というようなことをイベントのときに考える

  1. 主催者(会場の設定者)
  2. 講師(導き役)
  3. 参加者

お寺(自分たち)は、なにができるか、なにをしたいか。
あなたたちと、どのようなところで手伝えるか。

よい「場を作る」ことと、みんなが良いご縁を得ることが、うまいこと循環するような。そんな機会を得たいものだ。

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