どのような人も素な自分でいられる場所、ってどんな感じだろうか。考えています。

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ようがくじは東京都江東区にあるお寺。東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線 門前仲町駅から徒歩4分。清澄通りと葛西橋通りの交差点という、通学や通勤の通り道にあります。

お寺の裏側には小学校や幼稚園もあり、子どもも大人もたくさん通ります。車道の幅も広く、たくさん車も通っている。

そんな場所で生まれ、育ちました。
修行道場へ行き、お寺に戻り、まず思ったこと。
「この街に、都市に多くの住民がいる。彼ら彼女らの多くは忙しい毎日を過ごしており、家(家庭)と職場・学校の往復になっているのでは」ということ。

せわしない(ように見えた)様子から、このように思ったのでした。なるほど坐禅会が数十年前から流行しているのも頷けるな、と思ったのでした。

お寺と世間、時間の流れが違います。

物事を動かしていくには遊び部分が必要です。精密機械の部品同士がキッチキチならば、油をささないといけません。人間の身体、たとえば関節にも軟骨や動きやすくする余裕がある。

日常において、同じことの繰り返しにいようがいまいが、精神的に疲れる・追い詰められるときがある・・・のが人間です。

余裕がほしい。
家でもない、職場でもない、学校でもない「場所」。
サードプレイスという言葉が有名です。お寺は、そこを、居場所として、何かできるんじゃないか。そう思いました。

お金を払うと、“その時間その場所に、いてもよい”場所になる

臨済宗は「坐禅」が有名です。足を組み(イスでも可)、きもちのいい姿勢で、深呼吸。参加費:お賽銭が多いですが、坐禅会が開かれています。検索すると、開催場所や時間別でいろいろと出てくる。
ようがくじも坐禅会をしています(不定期開催)。

お寺でヨガをする会もだいぶポピュラーになりました。ようがくじも寺ヨガをしています(毎月第2・4金曜日の夜19:00~20:00)。

身体を通して、考えてみる。禅宗らしい、臨済宗らしいアプローチ。東京の、江東区の、門前仲町の、深川の、交差点に、このお寺がある意味を考えたとき、地域に貢献できるし、単純に自分のさせてもらっていることでまわりの人が喜んでいたら私も嬉しいし、この地に住むひとも嬉しいんじゃないかと思った。

好きにしていいですよ。そう言われると逆に困る・・人間は不思議な生き物です。
お金を払うと(良くも悪くも)わたしは払ったんだと安心することができるなら。坐禅会やヨガ等では、参加費をとる形にしています。

参加費だけでペイしようとは思っていません。だけど、こんな場所・空間を続けること/続くことをあなたが願ってくれるなら、お賽銭という形だったり。お気持ちを仏さまにお供えしてもらえたら嬉しい。

お金を払わなくても、いてもいいよ

「お金を払えば、いてもいい。」・・・ができたので、

「お金を払わなくても、いてもいい。」

も考えました。参加費はお気持ち。仏さまにご挨拶してもらえれば。
それがお寺の本堂で、ボードゲームやけん玉を遊ぶ会でした(お寺ゲーム部:不定期開催:だいたい毎月1回 土日の昼〜夕方)。

坐禅にしても、ヨガにしても、「すること」がなければ人はその場所へ行こうかなァ・・・と思いません。
坐禅会、寺ヨガやお寺イベントの手伝いをしていて よく感じたのは、参加者の「楽しもう」という前のめりな姿勢。
「すること:遊ぶ」にして、「楽しもう」という姿勢を爆発させようと思いました。子ども・親子向けイベントがないのもあり、「すること:遊ぶ」にしようと。
やってみて分かったのですが、副産物にも気づきました。

知らない大人同士、子ども同士、大人と子どもが、真剣に遊ぶのです。

ボードゲーム、盤上遊戯。将棋、オセロや囲碁などのおもちゃのこと。
囲碁は、たった三つのルールの陣取り合戦です。ハンディキャップを使えば、80歳のおじいさんと6歳の小学生も遊ぶことができる。

子どもは敏感です。手加減しているな、集中していないな、上から目線だな、と対戦相手のことをすぐに分かります。そんな遊びは楽しくません。

ボードゲームでは、パソコンがルールを教えてくれることはありません、ここ違うよ!とオートで表示もしません。
ひとりの人間として、お互いルールを遵守して、陣取りで勝つ。同じ方向を向く、そして競う。
これは素晴らしい経験だと気づきました。

たとえば、お子さんがひとりのご家庭。おかあさんとおとうさんとお子さんの3人家族。お母さんが怒るときは、お父さんは逃げ場になる。お父さんが怒るときは、お母さんが逃げ場になる。
子どもは特に弱い存在なので、「いてもいい居場所」を常に用意する必要があります。
おかあさんおとうさん二人で怒ると、「家(家庭)」は「いてもいい居場所」としての機能が減ってしまう。「家(家庭)」「学校」(「習い事・学童(学校の延長)」)くらいしか、“自分の社会”のない子どもにとって、「いてもいい居場所」は貴重です。子どもは、すでに余裕がない。
(ちびまる子ちゃんのまる子にとって、友蔵おじいちゃんは「いてもいい居場所」の最たるものでしょうか)
そうかといって、おとうさんおかあさんが少しでも安心できるような場所って・・・。

相席。知らない人同士の触れ合い。
お寺の不思議な安心感のなせる技なのかもしれません。

身体を動かす系のボードゲームもありますが、スポーツをしたい。けん玉を見出しました(けん玉先生として、検定します)。

自分の遊びたいボードゲーム・カードゲームを持参してくださる方もいらっしゃいます。わたしの指示に従うわけではなくて、自由に遊ぶわけです。
お茶でも飲みたいね、となれば、スーパーへ買い出しにいったり。
お菓子やお茶をご持参され、おしゃべりだけする方もいる。

夕方のおひらきに前の最後には、なむなむタイムとして、読経はいたしますが。


ようがくじは本堂の裏に墓地があるのですが、お墓参りや法事をされる方だけのためにお寺があるわけではありません。

このように、できる範囲で、続けていけたらいいなと考えています。
そのためには、みなさまの日常も大切であり、お寺が維持運営されていることも必要ですし、わたしの健康も大事なのです。

どのような人も素な自分でいられる場所、ってどんな感じだろうか。考えています。

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